【クイズダービー】
『クイズダービー』(英称:Quiz Derby)は、1976年 (昭和51年) 1月3日から1992年 (平成4年) 12月19日までの17年間にわたってTBS系列で毎週土曜日の19:30 - 20:00 (JST) に放送されていたクイズ番組・ゲーム番組である。ロート製薬の一社提供。全862回。
1976年から1992年まで17年間も放送された、人気のクイズ番組。
土曜日19:30からの30分番組だった。
競馬のギャンブル性をクイズに取り入れた面白さが受けたのではないでしょうか?
「ロート製薬」の1社提供でしたね。
あの頃、このロート製薬の1社提供番組って他にも結構あったような覚えがあります。
【概要】
出場者が解答者の中からクイズに正解すると思う人物1人に自分の持ち点を賭け、得点を増やしていく競馬方式の番組。
元々この枠では大橋巨泉の司会で同じくロート製薬の一社提供番組だった『お笑い頭の体操』が1968年2月3日から放送されていたが、視聴率が低迷してきたことを受けてスタッフやスポンサー等から持ちかけられた番組のてこ入れを巨泉が拒否し1975年12月27日放送分での終了が決定する。その際「こういう新番組をやりたい」と競馬好きの巨泉がかつてカナダで見たクイズ解答者を馬に見立て賭けを行い高得点を競う競馬形式のクイズ番組『セレブリティ・ステークス』を模倣した企画を自ら立案し、翌年から番組がスタートすることになった。その『セレブリティ・ステークス』について巨泉は「非常に短命で、1年も続かなかった」と語っていたが、『クイズダービー』はルールはもとより、司会者と解答者とのやりとり、ギャンブルのスリルを味わえることがうけて人気番組になった。
この番組の前にも大橋巨泉の「お笑い頭の体操」という番組をやってたんだけど、視聴率が低迷していたらしい。
そのため、テコ入れのために大橋巨泉がカナダでやっていた競馬形式のクイズ番組を取り入れたアイデアを提案。
新番組としてスタートすることとなったそうです。
当初は17年間も続く長寿番組になろうとは思わなかったでしょうね!
当時の「ボードゲーム」になるなど、人気の程が覗えます!
小学生の頃、友達の誕生日会で遊んだ記憶があります(笑)

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■視聴率は?
最高視聴率は1979年6月30日放送分(第180回)に記録した40.8%(関東地区)で、ビデオリサーチ調べのクイズ・ゲーム部門ではNHK総合テレビ『クイズ面白ゼミナール』が記録した42.2%に次ぐ記録である。これは民放に限れば第1位の視聴率であり、クイズ番組としては初めて視聴率40%台を記録した番組であった。番組の最盛期は上記最高視聴率を記録した1979年から1981年にかけてで、この3年間は年間平均視聴率がおよそ30%にも達し、年間視聴率ベスト20にも記録されている。
最高視聴率はなんと40.8%!!
現在の水準からは考えられない程の高視聴率ですね!
民放のクイズ番組では歴代1位の記録だそうです。
■収録は「撮って出し」だった!?
CMなどを除いた番組放送時間は24分であったが、収録は25分までで、「撮って出し」の手法が使われた。巨泉から2代目司会者を引き継いだ徳光和夫によれば、「巨泉さんは番組収録を毎回35分程度で終えていた」とのことであった。収録は隔週月曜日に現在のTBS社屋の近くにあったTBSホールで行われていた。
CMを除いた24分の番組を25分で撮っていたとのこと。
なんて効率のいいやり方(苦笑)
撮り直しも編集もなくそのまま「撮って出し」の放送だったらしい。
出演者も回答者も変なミスや失敗できない雰囲気だったんじゃないかな??
■番組開始当初は苦戦!?
1976年1月3日、放送開始。第1回は芸能人大会だった。番組開始当初は、複雑なルールが災いして視聴率が低迷。2月には4.4%にまで下落し、TBS上層部から再三打ち切り勧告が出された。しかし、スポンサーであるロート製薬の意向もあり番組は継続し、同年7月10日放送分(第28回)よりルールを単純化したところ秋頃には視聴率が20%を超え、TBSを代表する看板番組となった。
開始当初はルールが複雑だったようで、視聴率も4.4%にも下降し苦戦したとのこと。
TBS上層部からは何回も打ち切りの打診があったという。
ロート製薬が継続の助け舟を出してくれて、ルールを単純にすると視聴率が20%を超えるようになり、人気が出始めたらしい。
あの回答者に点数を賭けて倍率(オッズ)を巡る駆け引きが面白かったですからね。
「はらたいら」さんや「竹下景子」さんは当たりやすいので倍率も低かった覚えが、、、
最後に「はらたいらさんに全部!!」とか言って一発大逆転を狙ったりとか(笑)
■歴代司会者
初代:大橋巨泉(1976~1990年)
番組の基本的なシステムやルールの企画考案者でもある。
レギュラー退任後は1992年12月19日放送分の最終回、2000年・2004年・2014年・2015年の復刻版を担当。
2代目:徳光和夫(1990~1992年)
フリーになった後の最初の仕事である。
前述の通り、最終回には5枠の解答者として出演した。