こいつが投げれば、今日は負けないっていう信頼感というか凄みがありましたね。
90年代の中日ドラゴンズの左腕エースの「今中慎二」
逆に、今中で負けたのならしょうがないというような風格すらありました。
90年代には「山本昌」とともにサウスポーの2大エースといった感じでマウンドに君臨していました。
細身の体で、しなやかで鞭のようにしなる左腕から繰り出される145km前後の速球と大きく曲がる縦割れの90km台のスローカーブが特徴的でした。
あの緩急の使い方が絶妙で、速球とカーブの速度が60kmぐらい違うので、バッターはタイミングを狂わされてしまうようであった。
当時、見ている方は、なんであんな緩いボールが打てないのだろうと不思議に思ったものだが、バッターボックスに立っている打者でなければ、あの感覚はわからないのだろうと思う。
大体、サウスポーで145kmのスピードが出る事自体がすごい事で、体感としては右ピッチャーより速く感じられるそうである。なので、打者からすると150km超にも感じられたのではないだろうか。
また、ストレートもカーブも腕の振りがまったく同じなのも打者を幻惑させたのだろう。
普通は多少違っていたりして、打者はその癖を見抜いて攻略したりするのだが、今中はまったく同じ振りだったので攻略できなかったようだ。
キャッチャーの中村武志でさえ、同じ腕の振りだったのでサイン間違いではないかと不安に思うぐらいだったそうである。
マウンド上でクールだったのもカッコよく、あまり感情を出さなかったのも打者たちにとって掴みづらかったのだと思う。
自信に満ち溢れていてマウンドを支配する騎士といった雰囲気。
高卒のドラフト1位で入ってきて、当時の星野監督から目をかけられていて、こいつは将来、日本球界を背負って立つ存在になると言わしめたそうだ。
それだけ、やはり将来性の高い素材だったのだろう。
確か、既に1年目から使われていて、最初の頃は打たれても打たれても我慢強く使われていた記憶がある。
記録を紐解いてみても、10試合の登板で7先発、1勝4敗で防御率は6.86となっている。
磨けば光る逸材なので、どんどん経験を積ませようとしたのだろう。
その甲斐もあってか、2年目には早くも10勝を挙げている。高卒新人のピッチャーとしては異例の早さと言えるだろう。
大体、普通は打者でも投手でも高卒の選手はプロとしての体力や技術の習得に3~4年は要するものだが、今中は19歳ぐらいで二桁投手になっているのである。
1991年には12勝13敗ながら、防御率は2・52で最後まで防御率のタイトル争いをしていた記憶がある。
1992年には骨折をしてしまい、3か月も戦列を離れることになったのだが、その時にあの代名詞とも言えるドロンとしたスローカーブを習得したそうである。
圧巻は1993年で17勝7敗1セーブで防御率2.20 奪三振も最多の247個も奪って、沢村賞を獲得したのだ。
ファンからするとこの頃から、今中が投げると勝てる!!という期待感で見るようになっていったと思う。
その後、1996年までは連続で2桁勝利を挙げて順調な野球人生だったのだが、1997年に左肩に痛みを訴えて、そこからが苦難の始まりとなった。
あの王者のような風格の今中が打たれるようになり、それ以前にほとんど投げられなくなって一抹の寂しさを覚えたものだ。
マウンドから打者を見下ろすように投げていた姿が目に焼き付いており、あんな今中の姿を見るとは想像もしていなかったからだ。
やはり、ああいう細身の体形でしなる鞭のように投げていた左腕が、かなり酷使されていたという事だろうか。
結局、左肩にメスを入れる事になったようだが、往年の投球を取り戻す事は出来ず、2002年にひっそりとユニフォームを脱ぐ事になったのであった。
全盛期は短かったが、あのクールでカッコよく頼れる存在だった「今中慎二」の姿は今もファンの脳裏に焼き付いているのである。