「王貞治」の一本足打法に憧れ続けたという「大豊泰昭」
白血病により51歳という若さでお亡くなりになったという事も驚きで、残念で仕方ありません。
一本足打法にしたのは入団5年目の1993年からということで、実は最初から一本足打法だった訳ではないんですね。
入団当初から見てた筈なんだけど、なんかあんまり記憶にない。(苦笑)
逆に、それでもよくホームランを打っていて、元々の長打力の素地はあったということでしょう。
一本足打法にする前でも、1991年には打率.283で26本塁打72打点とスラッガーとしては合格の成績を残している。
それでも入団1年目から順調に活躍していた訳ではなく、打率も低くホームランもなかなか打てず苦しんでいた成績が残っている。
長打力は高いものの、やはり好不調の波が大きいタイプで、監督としてはずっとレギュラーで使い続けるのは難しかったのだろう。
あとは、我が強く、自分の納得できないことには噛み付くタイプで、首脳陣とかとも衝突していたのではないだろうかと想像できる。
審判らにも食って掛かる場面があり、何回も退場処分を受けている。
無骨に一本足打法にこだわりを持っていた事も強く印象に残っており、必死に打撃フォームをつかもうとしている映像をよく見た記憶がある。
真面目に練習に取り組んでいて、真面目すぎて自分を追い込んでしまうタイプのようにも見えたものだ。
それだけ難しい打法ということなのだろう。
遠くへ飛ばせるというメリットと、不安定な打撃に陥りやすいというデメリットがあり、”諸刃の剣”という面があったと思う。
それでも一本足打法に変えてから、1994年には38本塁打107打点で2冠を獲得し、1996年にも38本塁打を記録しているので、やはり一本足打法を一時的でもつかんだのではないかと思う。
しかし、それも長くは続かず、広いナゴヤドームに変わってからはさっぱり打てなくなり、阪神にトレードされて甲子園も広いため30本塁打以上打てる事がなくなってしまったのだった。
また、当時の阪神の監督が野村克也監督だったのも、混迷に拍車をかけてしまったのではないかと想像できる。
ああいう一本足打法というような確実性の低い打撃フォームは野村監督は嫌うだろうな、と思う。
実際、一本足打法では使わないと言われて、一時的ではあったがすり足打法にして打率.341という高打率を残したこともあったが、結局、翌年にはまた元の一本足打法に戻してしまったそうだ。
やはり、我を通すタイプでこだわりが強かったということだろう。
2000年には一本足打法に戻して23本塁打54打点をマークしたものの、野村監督と合わず年俸を巡ってフロントとも対立したようで、自由契約になり中日に復帰したが、やはり鬼門のナゴヤドームではなかなかホームランも打てず、2002年に引退したのだった。
頑固に一途に一本足打法を追い求めた「大豊泰昭」のひたむきな姿は、今もファンの記憶に焼き付いているのである。