長い歴史を誇る中日ドラゴンズ。強い印象が残っている思い出の外国人選手のまとめです。*現役選手は除く。
【ケン・モッカ】
1982年に中日ドラゴンズに入団し、来日。中日在籍4年間は3番・三塁手として活躍。三塁守備は失策の多さと守備範囲の狭さから不安定だったものの、打撃では3割を超える打率を3回残し、円熟期の田尾安志・平野謙・谷沢健一・大島康徳・宇野勝・中尾孝義らとともに、強竜打線と呼ばれる打線の一員として活躍する。
通算成績: 打率 .304 82本塁打 268打点
【郭源治】
1981年3月に中日ドラゴンズと仮契約を結び入団が決まった契約金と年俸はそれぞれ1,250万円と最低保証額の240万円で、3,000万円以上の契約金を提示してきたNPBの球団もあったが、最初に高く評価してきた中日を信頼して入団を決めた。
最速151km/hの速球、スライダー・シンカー・フォークボールなど多彩な変化球を投げた。闘志を前面に出す気迫溢れる投球スタイルが持ち味で、マウンドで見せたガッツポーズは「郭ダンス」と称された。
抑えを務めていた時は、自責点だけでなく失点も少ないという特長があった。
通算成績: 106勝 106敗 116セーブ 防御率 3.22
【ゲーリー・レーシッチ】
1986年に中日ドラゴンズに入団し、来日。来日1年目からクリーンナップに定着し、36本塁打を放った。2年目の1987年には出場辞退したボブ・ホーナーに代わってオールスターゲームに出場した。
1988年には3番打者、落合博満の不振時には4番打者としてチームのリーグ優勝に貢献。右脇腹痛もあり同年限りで中日を退団し、帰国した。
通算成績: 打率 .283 76本塁打 189打点
【マーク・ライアル】
1991年、中日ドラゴンズに入団。同年は勝負強い打撃でチームを牽引し、87打点はチームで落合博満に次ぐ成績だった。翌1992年は左膝を故障。球団が急遽獲得したアロンゾ・パウエルの活躍もあって出番が無くなり、シーズン途中の6月に退団した。
通算成績: 打率 .286 24本塁打 88打点
【バンス・ロー】
1990年にNPBの中日ドラゴンズに入団。中日のフロントにバンスローの情報をもたらしたのは、元中日の選手で、当時エクスポズのコーチを務めていたケン・モッカとされる。1年目にして打率.313、29本塁打、78打点の成績を残し、ベストナインにも選ばれ、助っ人としての役割を十分に果たした。しかし翌年の1月には、「家族との時間を優先させる」という理由に加え、星野仙一の鉄拳制裁に不満を抱き、わずか1年だけのプレーで退団。入団の際に2年契約を結んでいたため、退団の際は球団に違約金を支払っている。
通算成績: 打率 .313 29本塁打 78打点
【アロンゾ・パウエル】
1992年5月、マリナーズ傘下のAAA級カルガリー・キャノンズから中日ドラゴンズに入団し、来日。当初は日本の投手の変化球に対応できず低迷したものの、徐々に適応しその打棒を存分に発揮。同年は規定打席不足ながら打率.308をマーク。
1993年は規定打席に到達し、打率.317。
1994年から1996年には外国人選手初の3年連続首位打者を獲得。膝の故障から1997年には打率.253と低迷し、同年限りで退団。
通算成績: 打率 .313 116本塁打 397打点
【宣銅烈】
巨人との争奪戦の末、1995年オフに中日ドラゴンズに入団。
2年目の1997年に大変身。同年のオールスターゲームに出場。同年は当時の日本記録となる38セーブを挙げ、佐々木主浩(横浜)と共に最多セーブ投手に輝く。この年はチームが最下位と低迷する中、最多勝を獲得した山本昌とともに奮闘した。
1999年、この年も抑えの切り札として28セーブを挙げ中日の11年ぶりのリーグ優勝に貢献したが、シーズン中盤の6月に3連続で救援失敗をするなど安定感が薄らいだ事などから、この年のシーズン限りでの現役引退を表明。
通算成績: 10勝 4敗 98セーブ 防御率 2.70
【レオ・ゴメス】
1997年、中日ドラゴンズに入団。勝負強い打撃で主に4番打者として活躍し、1年目から打率.315、31本塁打の好成績を記録した。1999年には36本塁打、109打点で当時の球団外国人選手の最高成績を収めてリーグ優勝に貢献した。特に優勝争いをしていた読売ジャイアンツ戦に強く、36本塁打の内、13本塁打を読売ジャイアンツの投手から放つ活躍をした。 2000年に「家族との時間を大切にしたい」という理由で一時退団した。
通算成績: 打率 .293 153本塁打 449打点
【サムソン・リー】
1998年に中日ドラゴンズに入団。宣銅烈、李鍾範と合わせて3人の韓国人選手が在籍したことから三銃士と呼ばれた。日本での初登板は5月9日の対巨人戦(東京ドーム)。最初に対戦した打者元木大介に1ボール2ストライクから投じた5球目を本塁打された。その後の6月6日にナゴヤドームで対戦した際も1死満塁から走者一掃の三塁打を打たれた。1年目は1勝にとどまった。1999年当初は先発だったが、血行障害と大学時代からの持病である習慣性脱臼の影響で、後半から中継ぎに転向し、岩瀬仁紀、落合英二とともに活躍。6勝を挙げてチームのリーグ優勝に貢献。
通算成績: 7勝 5敗 3セーブ 防御率 3.30
【メルビン・バンチ】
2000年に中日ドラゴンズに入団。同年4月7日の対横浜ベイスターズ戦でノーヒットノーランを達成。長身から投げ下ろす150km/h前後の速球と、速球と同じ球速で落ちるSFFなどの多彩な変化球を武器に、同年に14勝で最多勝のタイトルを獲得した。また打撃も良く、公式戦で福岡ドームで初めてホームランを打った投手でもある。
2002年のシーズン途中、先発予定日にナゴヤドームに向かう途中で体調不良を訴え登板を回避。不整脈と診断され、そのまま帰国、退団し野球選手としても現役引退した。
通算成績: 31勝 23敗 0セーブ 防御率 3.19
【エディ・ギャラード】
2000年のシーズンはじめに、中日ドラゴンズに入団。
前年に引退した宣銅烈の後を継ぐ抑え投手として、150km/hを超える速球を武器に安定した投球を見せ、オールスターゲームにも出場した。同年は、35セーブを挙げて、史上初めて1年目の外国人投手として最優秀救援投手のタイトルを獲得した。
2001年にもオールスターゲーム出場を果たし、2002年には34セーブを挙げ、自身2度目の最優秀救援投手のタイトルを獲得。
2003年4月には148試合目で通算100セーブを挙げる最速記録を樹立した。
通算成績: 6勝 9敗 120セーブ 防御率 2.90
【タイロン・ウッズ】
長距離打者を求める中日ドラゴンズや阪神タイガースなどからオファーがあり、2004年2年契約で中日へ移籍した。
2005年8月6日の対横浜戦(横浜スタジアム)で観客席から「Money、Kaese!(金返せ)」のプラカードを出された事に奮起して来日初の1試合3本塁打を放つ。4番打者として、本塁打王こそ逃したがチーム1位の38本塁打を放ち、2年連続の100打点と初の打率3割も記録。
通算成績: 打率 .289 240本塁打 616打点
中日 ケン・モッカ 引退試合 1985年9月19日(ナゴヤ)
中日ドラゴンズ 外国人選手のテーマ 東京ドーム
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