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中日ドラゴンズ 伝説の選手たち(投手編)

長い歴史を誇る中日ドラゴンズ。強い印象が残っている思い出の投手のまとめです。

*現役選手は除く。

 

星野仙一

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1968年のプロ野球ドラフト会議で、水原茂が監督就任したばかりの中日ドラゴンズから1位指名を受け入団。入団3年目の1971年に中日のエースナンバーである20へ変更した後も非常に愛着のある番号だったという。

1971年に肘を痛めてから速球は影を潜めたが、変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍した。1974年には初代最多セーブのタイトルと沢村賞を獲得するなど、巨人のV10を阻みチーム20年ぶり、2度目のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献。優勝を決めた試合では、胴上げ投手となった。

通算成績: 146勝 121敗 34セーブ 防御率 3.60

 

星野仙一 - Wikipedia

鈴木孝政

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1972年のプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズに1位指名されて入団。中日はこの年のドラフトで球団、親会社と仲根正広の指名を希望していたがこのドラフト会議に監督の与那嶺要の代理で出席したヘッド兼投手コーチの近藤貞雄が、鈴木のとにかくボールが速いの評価にこれほど魅力的な要素はないと判断し中日の指名順番が回ってきたときに仲根が残っているにもかかわず鈴木を1位指名した。

150km台の伸びのある快速球を武器に、ロングリリーフもこなす救援投手として活躍。2年目の1974年には35試合に登板し、リーグ優勝に貢献。

通算成績: 124勝 96敗 94セーブ 防御率 3.49

 

鈴木孝政 - Wikipedia

 

小松辰雄

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1977年の夏の甲子園では、1回戦で奈良・智弁学園山口哲治と壮絶な投手戦を繰り広げるが、序盤に制球を乱して喫した2失点が響き、1対2で敗退した。同年のドラフト会議で中日ドラゴンズから2位指名を受けて入団。

入団当初からその速球には注目が集まり、150km/h台を連発。最速154km/hであり、「スピードガンの申し子」といわれた。何故これだけ速い球が投げられるのか調査が行われると、ずば抜けた背筋力という結論だった。入団当初はその速球を生かしてリリーフ、先発転向後もそのスタイルを崩すことなく成績を残した。

通算成績: 122勝 102敗 50セーブ 防御率 3.44

 

小松辰雄 - Wikipedia

 

 

三沢淳

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1971年シーズン後に中日に入団。

アンダースローからのシュートが武器で、内野ゴロで打たせてとるのが持ち味。1973年から1975年に3年連続2桁勝利を挙げるなど、長年主力投手として活躍。シュートを得意とするだけに与死球も多く、1974年、1976年の2度、リーグ最多与死球記録している。左打ちの打撃も得意でたびた好打をみせた。 1979年6月8日の読売ジャイアンツ戦、9回2アウトから柳田真宏に安打を打たれ、ノーヒットノーランを逃したことがある。中日在籍中は、松本幸行と仲が良かった。1981年は開幕投手を務めた。

通算成績: 107勝 106敗 6セーブ 防御率 3.81

 

三沢淳 - Wikipedia

 

【都裕次郎

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1976年のドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。プロ入り当時は権藤博投手コーチに「とてもプロで続けられるフォームではない」と言われた。

速球とスライダーを武器に頭角を現し、3年目の1979年に一軍デビュー。5年目の1981年には先発ローテーションに定着し、翌1982年にはオールスターゲームに出場。同年は16勝5敗、勝率.762で最高勝率を記録し、中日のリーグ優勝に大きく貢献した。1984年にも開幕7連勝を含む13勝をマークしたが、1985年以降は腰痛や肩の怪我に苦しみ、5年間で2勝に終わった。1989年に現役引退。

通算成績: 48勝 36敗 10セーブ 防御率 3.73

 

都裕次郎 - Wikipedia

 

堂上照

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1971年、電電北陸からドラフト6位で入団したが、なかなか芽が出ず、1974年に一軍初登板を果たす。初勝利を挙げるのはプロ6年目の1976年になってからだった。

オーソドックスな右オーバースローで現役時代は主に中継ぎ、時には先発として活躍。1978年には54試合に登板しエース級の相次ぐ故障もあって途中からは先発ローテーションを死守、9勝したが18敗を喫している。それでもこの年はオールスターに出場し同僚の木俣達彦と同第3戦でもバッテリー組んだ。1982年には主に中継ぎで1点台の防御率を記録しリーグ優勝に大きく貢献した。

通算成績: 35勝 49敗 7セーブ 防御率 4.36

 

堂上照 - Wikipedia

 

鹿島忠

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1982年にドラフト1位で中日入団。当初は本格派右腕投手として期待され、1986年には9試合に先発し3勝を記録する。しかし翌年は伸び悩み、1988年からは中継ぎとして起用される。安定した投球を買われ、右の重要な中継ぎ要員として息長く活躍した。球団歴代10位となる405試合に登板。1996年限りで引退。

通算成績: 36勝 28敗 14セーブ 防御率 3.95

 

鹿島忠 - Wikipedia

 

牛島和彦

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1979年のドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。
入団1年目の1980年から一軍で登板し、2勝を挙げる。1981年は開幕一軍をつかみ取り、中継ぎとして一軍に定着。1982年は鈴木孝政小松辰雄の後を継いでリリーフエースとなり、17セーブを挙げてチームのリーグ優勝に大きく貢献。1984年は自己最高の29セーブを挙げ、最多セーブ投手となる。

1986年オフ、ロッテオリオンズの主砲落合博満と1対4の大型トレードが発表される。最後まで納得せずに抵抗するが、当時監督に就任した星野仙一が自宅に出向き牛島を説得した。

通算成績: 53勝 64敗 126セーブ 防御率 3.26

 

牛島和彦 - Wikipedia

 

 

【近藤真市】

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1986年には春、夏連続で甲子園大会に出場。140km/h台中盤から後半の直球と大きく縦に割れるカーブ、さらに高校生離れした風貌と貫禄で10年に一人の逸材と注目を浴びる。同年のドラフト会議で5球団が1位指名で競合し、抽選の結果中日ドラゴンズが交渉権を獲得した。

プロ1年目の1987年8月9日の対読売ジャイアンツ戦(ナゴヤ球場)で先発登板し、無安打無失点(四球2、失策1)に抑え、プロ野球史上初の快挙となる初登板ノーヒットノーランを達成した。続く2試合にも勝利し、8月の月間MVPを受賞。同年は4勝(3完封)5敗。

通算成績: 12勝 17敗 0セーブ 防御率 3.90

 

近藤真市 - Wikipedia

 

山本昌

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1983年のドラフトで中日ドラゴンズに5位指名を受ける。

1988年に頭角を現して以降は先発ローテーション投手として活躍。40歳を過ぎてもなお円熟のピッチングで中日の先発投手陣の一角を任い、数々の投手最年長記録保持者となった。選手としての同一球団在籍記録は日本プロ野球記録を更新した。

通算成績: 219勝 165敗 5セーブ 防御率 3.45

 

山本昌 - Wikipedia

今中慎二

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1988年のドラフト会議で中日ドラゴンズに1位指名を受けた。

細身の体型から全盛期には最速150km/近いキレの良いストレートと100km/h前後のスローカーブフォークボールや70-80km/hという超スローカーブを混ぜた投球をしていた。さらに1996年頃からはチェンジアップも使っていた。これらの変化球を意識的に全く同じフォームで投げ分けて打者を翻弄し、捕手の中村武志がリリース直前までサイン間違いかと不安になることも少なくなかったという。特にカーブの方がストレートよりも力強く腕を振るように見えるフォームだった。

通算成績: 91勝 69敗 5セーブ 防御率 3.15

 

今中慎二 - Wikipedia

与田剛

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1989年度ドラフト会議で中日ドラゴンズが1位指名で交渉権を獲得。

初登板は1990年4月7日の横浜大洋ホエールズとの開幕戦で、同点で迎えた延長の11回表無死1、3塁のピンチでのリリーフ登板であったが2つの三振を含む無失点に抑えた。その後も抑えとして活躍し、6月1日にセ・リーグ新人選手初の二桁セーブを記録した。オールスターゲームにもファン投票で選出され、新人では当時最多となる31セーブを挙げ、最優秀救援投手のタイトルを獲得し、新人王に選出された。

通算成績: 8勝 19敗 59セーブ 防御率 4.58

 

与田剛 - Wikipedia

 

落合英二

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大学4年時に投球の際に右肘を骨折する重傷を負う。一時は選手生命も危惧されたが、回復すると判断した中日が1991年のドラフト会議で東北福祉大学のエース斎藤隆の外れ1位で指名し入団。

プロ1年目の1992年にはサファイアを埋め込む大手術を行った。

1998年に、抑えを務めていた宣銅烈に繋ぐ中継ぎとして固定されたことが転機となる。55試合に登板して、防御率2.82、4勝5敗5セーブの成績を挙げ、最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。

翌1999年には、サムソン・リー岩瀬仁紀らと強力な中継ぎ陣を形成し、リーグ優勝に大きく貢献した。

通算成績: 37勝 45敗 24セーブ 防御率 3.29

 

落合英二 - Wikipedia

 

川上憲伸

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1997年のドラフト会議直前の10月31日に、大学の先輩・星野仙一監督の率いる中日ドラゴンズへの逆指名を表明した。ドラフト会議では、中日が川上の単独1位で交渉権を獲得。

代名詞であるカットボールは元チームメイトで明治大学の先輩である武田一浩から教わり、マリアノ・リベラを参考にして開発したという。それまで変化球はスライダーとカーブだけであったが、カットボールをマスターすることにより投球パターンが大きく変わった。

通算成績: 117勝 76敗 1セーブ 防御率 3.24

 

川上憲伸 - Wikipedia

 

野口茂樹

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1992年のドラフトで中日ドラゴンズから3位指名を受けて入団した。

1998年はこの年投手コーチに就任した宮田征典の指導により、課題であったコントロールが飛躍的に改善しチーム最多タイとなる14勝(9敗)を挙げ、最優秀防御率のタイトルを獲得。

1999年のシーズンでは19勝7敗の成績を残し、リーグ優勝に貢献。リーグMVPに輝く。

通算成績: 81勝 79敗 2セーブ 防御率 3.69

 

野口茂樹 - Wikipedia

 

正津英志

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NTT北陸を経て、1997年ドラフトで中日ドラゴンズから3位指名を受け入団。

監督の星野仙一に度胸の良さを買われ、入団1年目の1998年から主に中継ぎとして4年連続して40試合以上に登板。投手分業の確立した中日で信頼できる中継ぎの一人となった。試験的に先発登板もしたが、左打者に打ち込まれることが多く先発転向はならなかった。

右のサイドスローから140km/h台前半のストレートとスライダー、シンカーといったキレの良い変化球を投げ込む。

通算成績: 25勝 10敗 0セーブ 防御率 3.54

 

正津英志 - Wikipedia

 

朝倉健太

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1999年のドラフトでは河内貴哉(現・広島東洋カープ)の外れ1位として、地元の中日ドラゴンズに1位指名されて入団した。

かつては、最速152km/hのストレートやスライダー・フォークで三振を奪っていくタイプであった。シュート習得後は球速も平均140km/h台中盤と抑え気味だが、高速シュート・やや落ちるツーシーム気味のシュート・スライダー・フォークなどの持ち球をバランス良く効果的に使い、内野ゴロの多さによる球数の少なさや併殺の多さが持ち味である。

通算成績: 75勝 60敗 1セーブ 防御率 4.11

 

朝倉健太 - Wikipedia

 

 


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