長い歴史を誇る中日ドラゴンズ。
強い印象が残っている思い出の野手のまとめです。
*現役選手は除く。
【高木守道】
高校3年夏の甲子園大会終了後にプロからの誘いがなく、OBの縁故を頼って高校卒業後は早稲田大学に進学する予定だったが、地元球団・中日から急遽オファーが届き入団する。
主に打低投高だった時代に活躍し、通算236本塁打は二塁での先発出場率が90%を超えている選手中では歴代最多である。レンジファクター系指標による二塁守備は、通算でプロ野球史上歴代最高値を出している。
高木は二塁手として2179試合・11477守備機会・5327刺殺・5866補殺・284失策・1373併殺という通算守備記録を残している。
通算成績: 打率 .272 236本塁打 813打点
【木俣達彦】
中京大学に進学し、1年生で正捕手になり秋季リーグで首位打者とMVPを獲得する。そのため中日ドラゴンズからの誘いがあり、中退して1964年に入団する。小柄ながら強打の捕手として活躍。
1969年にセ・リーグの捕手では史上初の30本塁打となる33本塁打、翌1970年にも30本塁打をマークする。典型的な長距離打者であったがゆえに粗さが目立ち、打率も低い為、それを改善するために、一本足打法でグリップを極端に下げてからトップの位置に持っていくマサカリ打法を編み出し上からボールをぶつけるレベルヒッターへ転向し安打を量産。
通算成績: 打率 .277 285本塁打 872打点
【大島康徳】
1968年のプロ野球ドラフト会議で3位指名され入団した。投手として入団したが、入団間もない投球練習でコーチから一球で「投手失格」を言い渡され、更に当時の監督だった水原茂が素質を見抜いて打者転向させた。
8年目の1976年、代打起用で勝負強さを発揮しシーズン代打本塁打7本の日本記録を樹立。翌年も調子を持続させ、三塁手のレギュラーとして打率.333、27本塁打。1979年には30本の大台を越える36本塁打。1983年に再び36本塁打を放ち本塁打王に輝く。
通算成績: 打率 .272 382本塁打 1234打点
【谷沢健一】
1969年のドラフト1位で中日ドラゴンズに外野手として入団。
1年目からレフトのレギュラーとなり新人王に輝く。1973年からは主に一塁を守るようになった。巧打の中距離打者として活躍し、1974年の巨人のリーグ10連覇を阻止するチームのリーグ優勝に大きく貢献。1976年に打率.355で首位打者を獲得。
1978年頃から大学時代からの持病のアキレス腱痛が悪化しシーズン途中で二軍落ち。
1980年には打率.369の高打率で2度目の首位打者、カムバック賞を受賞して見事復活を遂げた。
通算成績: 打率 .302 273本塁打 969打点
【宇野勝】
中日ドラゴンズのスカウトが甲子園で三遊間の深い位置に転がったゴロをさばいて強肩で打者走者を刺した守備力を評価して、同年のドラフトで3位指名したという話がある。
1981年8月26日の対読売ジャイアンツ戦で、7回裏の守備の際に山本功児の打った飛球を捕ろうとしたところ、目測を誤ってボールを頭部に当てるエラーがあった(宇野ヘディング事件)。
1984年は37本塁打で掛布雅之(阪神)と本塁打王のタイトルを分け合った。自身の1シーズン最多本塁打は1985年の41本塁打で、遊撃手のシーズン本塁打としては最高である。
通算成績: 打率 .262 338本塁打 936打点
【田尾安志】
1975年のドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。監督の与那嶺要のコメントが「アンダースロー用の代打で期待している。」と書いてあり、田尾はレギュラー取って3割を打ってやるぐらいの気持ちで入団したという 。
5、6月にきっちり二軍で練習と実戦を積み、一軍でスタメンで起用されるようになる。ルーキーイヤーの1976年は新人王に輝く。1982年は最多出塁数のタイトルを獲得し、リーグ優勝に貢献。
1982年から1984年にかけて3年連続の最多安打をマークするも、一度も首位打者のタイトル獲得はならなかった。
通算成績: 打率 .288 149本塁打 574打点
【中尾孝義】
1980年のドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。当時、中日の正捕手には木俣達彦が君臨しており、正捕手争いが注目されたが、走攻守に高い能力を見せ、1982年にはついに木俣に代わって正捕手となる。同年は中日のリーグ優勝に貢献。突出した数字ではなかったが、シーズンMVPに選出される。
「鈍足」「ずんぐり体型」という捕手のイメージを変えたと言われた。一方どんな試合展開でも手を抜かず全力でプレーした中尾は、ホームでの接触プレーも多く、故障も多かった。同時代にプレーした「無事これ名馬」を地で行く巨人の山倉和博とは対照的であった。
通算成績: 打率 .263 109本塁打 335打点
【平野謙】
1977年のドラフト会議では中日ドラゴンズが指名した6選手中3選手が入団を拒否したため、球団はドラフト外での獲得を積極的に進め、その一環として平野の入団も決まった。
スイッチヒッター転向の際はコーチの広野功がつきっきりで指導し、左打席ではとにかくダウンスイングで思い切りボールを叩いた。
また、生涯犠打数451はプロ野球史上2位の記録である。バントの際には打球の勢いを殺すことを意識しすぎるよりもコースが重要だと考え、フィールディングが良くなければ投手の前に転がすのが良いと語っている。
通算成績: 打率 .273 53本塁打 479打点
【川又米利】
1979年にドラフト外で中日ドラゴンズに入団。
なかなか一軍に定着できなかったが、1985年には右翼手の定位置を獲得、初めて規定打席に達する。シーズン中盤には谷沢健一の故障で一塁手としても出場した。翌1986年は谷沢に代り一塁手に回り、その後も1989年まで右翼手、一塁手のレギュラーとして活躍。1988年のリーグ優勝に貢献した。しかし落合博満が一塁手に定着し、外人選手の入団もあって、代打の切り札や外野の準レギュラーとして起用される。特に相性の良い巨人戦には勝負強さを発揮した。町田公二郎に次ぐ代打本塁打16本の記録を持つ。1997年に引退。
通算成績: 打率 .266 74本塁打 364打点
【上川誠二】
ドラフト外で中日ドラゴンズに入団。
1982年(昭和57年)には、1年目ながら二塁手として田野倉正樹と併用され、リーグ優勝に貢献。同年の日本シリーズでは全試合に先発出場。伏兵と称され、第3戦で逆転本塁打、第6戦で同点適時打を放つなど活躍。敗退はしたが、21打数6安打6打点を記録し敢闘賞を受賞。
1983年(昭和58年)に就任した山内一弘監督から、ダウンスイングからレベルスイングへの改造指導を受け、ヒットゾーンを広げた。同年はレギュラー二塁手に定着し、初めて規定打席にも達する。翌1984年は自己最高の打率.309を記録した。
通算成績: 打率 .271 51本塁打 282打点
【立浪和義】
1987年のドラフト会議で南海と中日ドラゴンズが1位で競合し、南海・杉浦監督と中日・星野仙一監督のくじ引きになった。結局、星野監督が当たりくじを引き当てて中日が交渉権を獲得、中日に入団する。
入団から早期にレギュラーとして定着し、入団3年目の1990年から2005年まで16年連続規定打席到達を記録。代打での出場が多くなった2007年以降でも、代打の準備にネクストバッターズサークルに現れただけで大歓声を受けた。打席に向かう時の歓声は「代打・立浪」のコールが聞こえなくなる事も有る程だった。
通算成績: 打率 .285 171本塁打 1037打点
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【彦野利勝】
1982年のドラフト会議で中日に5位指名を受け入団、投手から外野手に転向する。入団後は二軍暮らしが続いたが、5年目の1987年に一軍定着。星野仙一監督時代の1988年には「長打力のある1番センター」=核弾頭として6年振りのリーグ優勝に大きく貢献した。1989年には自己最高の26本塁打を放ち、オールスターゲームにも監督推薦で初出場。同年のベストナインにも選出された。翌1990年はオールスターゲームにファン投票選出された。強肩を活かした守備が評価され、1988年から3年連続でゴールデングラブ賞を受賞。
通算成績: 打率 .264 85本塁打 340打点
【中村武志】
1984年のドラフト会議で中日ドラゴンズから竹田光訓の外れ1位として指名され入団。入団2年目まではまったく活躍の場がなかったが、星野仙一が監督に就任した3年目の1987年から星野に才能を見出され一軍で出場し、翌1988年の6月頃からはレギュラーに定着しその年の盗塁阻止率1位に輝く。本人いわく、冗談めかして「もともといい男だったが、もとの顔が変形するほど殴られ続けた」という星野の厳しい教育を吸収、以後、10年以上に渡り、ドラゴンズの正捕手の座を保ち続ける。打撃も次第に開花し、現役通算で137本塁打を記録した。
通算成績: 打率 .242 137本塁打 604打点
【山崎武司】
1986年のドラフト会議で中日ドラゴンズが2位指名で交渉権を獲得し、契約金4000万円、年俸400万円(金額は推定)で入団。
1996年6月は打率.403、13本塁打、33打点を記録し、月間MVPに選ばれる。レギュラーシーズン序盤は打率、本塁打、打点の3部門でトップとなり、オールスターゲームにも監督推薦で出場する。松井秀喜、大豊とタイトルを争った本塁打部門では39本の山崎が38本の松井と大豊を抑えて本塁打王を獲得した。なお、この年は打率はリーグ4位の.322、打点もルイス・ロペスに次ぐ107打点を記録している。
通算成績: 打率 .257 403本塁打 1205打点
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【仁村徹】
1983年のドラフト2位で中日に入団。
投手としては1試合の出場のみで、1986年に二塁手に転向。1987年に122試合に出場してレギュラーとして定着。1988年は左ヒザの故障で出遅れ92試合の出場、ポジションも二塁手にコンバートされた宇野勝の存在もあって三塁手がメインになるも、打率.306、7本塁打、52打点の好成績を挙げ、チームの優勝に大きく貢献した。1989年には主将になりチームをまとめたが、それ以降はヒザの故障の再発などもあり、おおむね年間100試合弱の出場にとどまった。
通算成績: 打率 .273 67本塁打 344打点
【大豊泰昭】
1988年のNPBドラフト2位で中日と選手契約。
プロ1年目の1989年は一軍と二軍を行き来しながらも14本塁打を記録。2年目の1990年は20本塁打を放った。1992年、秋季キャンプで臨時コーチとして訪れた張本勲の勧めで一本足打法を始める。1993年には25本塁打を放つと、1994年には38本塁打、107打点で本塁打王と打点王の二冠を獲得。1996年は開幕から驚異的なペースで本塁打を量産し続けたが、最終的に巨人の松井秀喜と同じ38本塁打に終わり、チームメイトの山崎武司に1本及ばず松井とともに本塁打王を逃した。
通算成績: 打率 .266 277本塁打 722打点
【落合博満】
1987年、牛島・上川誠二・平沼定晴・桑田茂の4選手との1対4の交換トレードでセントラル・リーグの中日に移籍。
落合の採用していた打法は、同じ神主打法を使用する他の選手と比べても独特であった。この打法はプロ入り間もない頃に受けた松沼博久の徹底したインハイ攻めに対応するため、改良を重ねて編み出されたものである。松沼は「最初のうち落合はインハイが全く打てず、ある時を境に苦手なはずのインハイばかり狙って振ってきた。そのうち神主打法を編み出し、インハイを完璧にカットする技術を身に付けていた」と語っている。
通算成績: 打率 .311 510本塁打 1564打点
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【関川浩一】
1997年は95試合の出場に留まったが、2年続けて規定打席不足ながら打率3割を記録した。オフに久慈照嘉と共に大豊泰昭・矢野輝弘との2対2の交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍。
広いナゴヤドームに適応できる野手として外野手専任となり、前年内野手として不本意なシーズンを送った立浪和義、投手として伸び悩んでいた井上一樹と共に外野守備コーチの二宮至の特訓を受けた。当時監督の星野仙一から重用され、移籍1年目からレギュラーとなり、1998年は125試合に出場し、3割は逃したが、3年ぶりに規定打席に到達し、打率.285の成績を残した。
通算成績: 打率 .286 24本塁打 324打点
【谷繁元信】
2001年は初めてシーズン20本塁打を打ち、オフにメジャーリーグへの移籍を目指しFA宣言を行う。トニー・アタナシオと代理人契約を結び、「年俸が下がってでもメジャーに行きたい気持ちがある」と強い決意で渡米。12月5日にはシアトル・マリナーズとサンディエゴ・パドレス、アナハイム・エンゼルスの関係者らの前でワークアウトを行ったが、良い条件が得られなかったためメジャー挑戦を断念し、中日ドラゴンズへ移籍。
2013年は開幕から打撃が好調で、5月6日のヤクルト戦で右前安打を打ち、通算2803試合目で史上44人目の通算2000安打を達成した。
通算成績: 打率 .240 229本塁打 1040打点
【井端弘和】
1997年のドラフト会議で中日ドラゴンズから5位指名を受け入団。
プロ入り当初は外野を守ることもあったが、2001年から遊撃手のレギュラーに定着。荒木雅博とは守備で二遊間、打順で1・2番を組むことから「アライバ」というコンビ名で呼ばれる。外野に抜けようかという打球を荒木が捕球したのち、無理に自ら一塁に送球せず井端にトスして送球を委ねるというプレーを始めとした数々の芸術的な守備を見せ、荒木と共に2004年から2009年まで6年連続でゴールデングラブ賞を受賞している。
通算成績: 打率 .281 56本塁打 410打点
【和田一浩】
2007年に初取得したFA権を行使し、12月9日、中日ドラゴンズとの入団交渉の末、地元の岐阜に最も近い球団という事もあり、本人曰く「幼いころからのあこがれの球団」である中日への移籍を数分で即決。
バットを上段に構えて上下に揺らし、極端なオープンスタンスから左足を高く上げ、全身を回転させるようにしてバットを背中の後ろまで一気に振り抜く、独特のフォームから弾き出す安定した打撃が特徴。独特の打撃フォームも手伝って右方向への打球が非常に良く伸びる。
通算成績: 打率 .303 319本塁打 1081打点
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